「いくら努力しても○○ができるようにならない……。才能がないのかな?」
今回は才能の残酷な事実について書いていくよ。
(それで諦めるかどうかはさておき)才能がある人、ない人は明確に存在する。
(ただ、極端に才能があるということは、どこか別の部分が極端にできない(脳の容量が才能がある分野に取られているなど)ということがあったりという考え方もできる。
一概にどこかの才能に恵まれているから、楽勝な人生だとは言いづらい。)
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【具体例】15年近く小説を書いて、まだまだな自分
具体例として自分の経験を挙げるよ。
自分は15年くらい作家・小説家を目指しているけど、書き上げられた長編はほぼない(短編は数ダースくらいあるけど)。
普通の作家が長編を売上の許す限り何冊も書いていっているのに対し、客観的に見れば全くもって才能がないと言える。
じゃあ短編書きに注力すればいいのか、とも思えるが「長編小説が書けなかった」というコンプレックスは一生つきまとうと思う。
長編・短編問わず小説の書き方の本を読んだり、(google)検索結果に入ったりを相当しているけれど、今をもって長編小説の書き方がわからない。
読むぶんには普通にできるけど、なんで書けるのかを想像することができない。
性分・性根が長編を書くのに向いていない気がしている(=才能がない)。
土台、安易な「これやりたい」程度で才能の見極めもせずに(さらに言うと見極めなんてやる前からできるわけもないし)初めて専門分野などに挑戦すれば、失敗する可能性は高い。
失敗を恐れて挑戦しなくなるのはもっと駄目だけど。
断言するけど(特別な)才能なんて、ない可能性のほうが高い。特に1発目。
自分の場合は精神病でロクに動けなかったから、「せめて文章くらいは書こう」程度の気持ちで小説を書いていたから報われていないのかもしれない。
【解決法】ちょっぴり諦める&他の才能を探す
諦められるのなら、諦めてしまうのも良い手だと思う。
実際、意固地(いこじ)になって努力するよりも、才能のある分野に入ったら思いの外居心地が良くて、さらにはすんなりお金を稼げたりという可能性もある。
諦める際には理由をつけないのも効果的だと思っている。
下手に『才能がないからやめる』とか思うと、自分の全てを否定してしまう気持ちになる場合がある気がするので、理由はつけずにやめるか、一時停止する(ちょっぴり諦める)。
「なぜやめたんですか?」の問いには「やめたからやめた」で返すだけでいいんじゃないか、と思っているよ。
いくら努力してもできないあなたへ
はっきり書いてしまうと「なんでできないのか、どうすればできるようになるのか」とか考えてしまう時点で才能がないのだろうと思う。
上手に言語化できるかはさておき、できる人はできてしまう。
理由なんてものは後付けされるものだ(そのあたりを「才能」というはず)。
言語化する前から「やりたい」「(なんか知らないけど)できる」と思えるようなことがあれば、それに注力してみるのをおすすめする。
自分はブログを試しにやってみたら、まだまだだけとはいえ収益化できたし、料理なんかもなぜだかできる(本格的なラーメンなどのレシピサイトを持っているくらい)。
大好きなゲーム(MTGアリーナ)もあるし、その攻略サイトは一番収益を出してくれている。
まとめ 「なんでできないのか」は一生わからない?
断言はできないのが心苦しい。
でも本当に才能がない、できないことってのは一生頑張っても「なんでできないのか(どうしたらできるようになるのか)」ということがわからないことなんじゃないのかな。
自分のこと、例えば長編小説だったら、全体の構造を思い描いたり魅力的なキャラを設定したりとかの総合力や、執筆の持続力などに関する話になりそうだが、
理屈として知っているのと身体で理解できるのは違う、ということだ。
できるのかできないのか微妙なラインなのが、一番もどかしく厄介だとも思う。
勇敢な人はそこで踏みとどまり、努力してしまうのかもしれないが、素直に自分に向いている方向を考えて努力してみると案外居心地が良かったりするので、柔軟に考えよう。
いざとなれば、平然と今までの頑張りを捨ててしまうのも勇気で度胸だ(戦略的撤退)。
うん。まだまだ雑で、上手くまとめきれなかったけど載せておく。
リライトするとなると完全に別記事になりそうだし、これでいいや。
以上!